弘化4(1847)年8月1日、“七郎麿に一橋家を相続させたい”という第11代将軍 家慶の内意が伝えられ、その報告を受けた斉昭は、七郎麿を直ちに江戸へと呼び寄せました。
七郎麿11歳のときに起きた大きな出来事でした。
水戸家には、世子の他にも多くの男子がいたからか、水戸家の男子を養嗣としてむかえたいという話はそれまでにもいくつかありました。
しかし、その中でも七郎麿は早くから頭角を現し、抜きん出た存在となっており、気性が激しく、今後の教育が大事だが、名将になる素質がある、そのことは父の斉昭が誰よりも認めていました。
水戸の七郎麿が利発であるという評判は、幕府上層部の間にも自然と広まり、やがて将軍の耳にも入りました。
その後、一橋家相続の内意が伝えられたとき、七郎麿を手放したくないという気持があったとされる斉昭がその気になったのは、11歳の七郎麿がいま一橋家入りすれば、将来将軍になれる可能性が高いということを読んだからです。
弘化4(1847)年9月1日、一橋家相続の公命が下りました。
その上意書には、「松平七郎麿は、一橋家を相続して徳川姓を名乗るべきこと」とのことが書かれていました。
徳川姓は、将軍家のほか、御三家と御三卿(田安、一橋、清水)の当主・嫡流だけに許され、御三家の子どもでも世子以外は松平姓を名乗ることになっていました。
そのため七郎麿は、一橋家を継いだことで家慶から慶の名をもらい、名を慶喜と改め、徳川慶喜となりました。
そして、10月5日、江戸城一橋門の一橋邸に移り住みます。
御三卿は、それぞれ10万石を給されましたが、これは全国に点在した領地の総石高で、一般の藩における領地とは意味が少し違いました。
居城も城下町も藩士もない江戸城の田安、一橋、清水の各門の裏にそれぞれ邸宅を与えられ、その地は現在の東京都千代田区大手町一丁目(気象庁や丸紅本社などがあるあたり)一帯でした。また、家政や領地のことに携わる役人は、多くが幕府からの出向でありました。
公益財団法人常陽藝文センター・発行『常陽藝文1997年12月号』参照
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