2019.08.15

【水戸の歴史 其の拾伍】水戸藩の大事業 「大日本史」の編纂~追録~

徳川ミュージアムHPより

写真は、茨城県常陸太田市にある西山荘です。

徳川光圀は、隠居後の元禄4(1691)年から元禄13(1700)年に亡くなるまでをここで過ごしました。そして、この隠居所において『大日本史』編纂事業の監修に力を注いだのです。

残念なことに当時の建物は文化14(1817)年に焼失してしまいました。現在の建物は文政2(1819)年に再建されたもので、平成27(2015)年11月に国の史跡及び名勝に指定されています。


『大日本史』は、神武天皇から後小松天皇に至るまでの日本の歴史を述べたもので、本紀・列伝・志・表から成り、合わせて397巻にもおよびます。

そして、完成までに250年もの年月を費やした大事業であり、その持久堅忍の力や継述は、歴史学界において一大偉観としなければならないとも言われ、その編纂についてははじめからすらすらと成立したものではなく、経過の中に幾多の紆余曲折があり、編集に携わった人々の非常な苦心と努力が積み重ねられています。

また、『大日本史』の名称は後年につけられたもので、義公当時には特定の名称がなかったようです。

『倭史』や『紀伝』、『史編』、『日本の史記』、『本朝の史』などと呼ばれていたようで、正徳5(1715)年にようやく『大日本史』と決定しました。

しかし、この命名の際も水戸藩内で『大日本史』と『皇朝新史』の2説で議論沸騰して容易に決定しなかったそうで、粛公(水戸徳川家3代藩主 徳川綱條)の決裁によってついに『大日本史』と決定したとのことです。

小林健三、照沼好文・共著『水戸学の傳統』参照

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