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写真は、弘道館近くに建つ、水戸藩9代藩主 徳川斉昭の像です。
弘道館周辺は現在、『水戸市歴史風致維持向上計画』に基づいて、水戸城大手門の復元工事が行われるなど、“歴史まちづくり”が進められています。 この地域が“水戸の顔”として、多くの方に「水戸にまた来たい」と思っていただけるような魅力あふれるエリアとなることを願います。 ※詳しくはこちらをご覧ください。 |
徳川斉昭は、7代藩主 治紀(武公)の第3子として寛政12(1800)年3月11日、江戸小石川の藩邸に生まれました。
兄の8代藩主 斉脩には子女がいなかったため、斉脩の義父である11代将軍 徳川家斉が自分の子を水戸藩主に推す等の
継嗣問題が起こります。しかし斉脩が病で亡くなった後、”斉昭を継嗣に”とする遺言状が見つかったため、文政12(1829)年10月、斉昭が跡を継いで藩主となりました。
9代藩主となった斉昭は、藩政の改革に全力を注ぎました。
人事を一新し、贅沢を厳禁として、学校の創設、海防施設の充実、武士の土着などの計画を発表し、領内の農村や海岸の視察も行ったようです。中でも弘道館創立や偕楽園開設は、特筆すべき大事業でありました。
斉昭の行った藩政の改革は、幕府の「天保の改革」にも大きな影響を与えたと言われています。
ところがこれらの改革が幕府に危険視され、弘化元(1844)年に斉昭は隠居謹慎を命じられてしまいました。
謹慎が解かれた後は幕政に関わるようになりますが、安政5(1858)年、将軍後継問題や日米修好通商条約への調印等で対立していた井伊直弼から、水戸での永蟄居を命じられてしまいました。
そして万延元(1860)年8月15日、永蟄居が解けないまま、波瀾に富んだ61歳の生涯を閉じ、その功績を称えて烈公と諡されました。
斉昭の逝去後に作成された正伝「烈公行実」には、
“四歳のときには振る舞いが成人のごとくとあり、この年はじめて「孝経」を読み、和歌を作った。
成長するに従って学問が大いに進んで、書を著し文を作り、その議論は人の意表に出た。”
など、斉昭が幼少の頃から異彩を放っていたことが記されています。
安見隆広・著『水戸斉昭の「偕楽園記」碑文』参照
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