現在の都立小石川後楽園は、寛永6(1629)年に水戸徳川家の初代藩主である頼房が江戸の上屋敷に築き、第2代藩主 光圀の時代に完成され、中国の『岳陽楼記』の“先憂後楽”の一節から「後楽園」と命名された庭園です。
左の写真をご覧いただくと白いものが庭園の上に見えますが、こちらは光圀の時代にはなかったものです。
小石川後楽園は、現在では東京ドームの真裏に位置しているため、ドームの屋根も景色の一つになっています。
右の写真は、園内の「得仁堂」という建物です。
得仁堂には、光圀が18歳の時に感銘を受けた『伯夷列伝』の伯夷と叔斉の木像が安置されています。
なお、小石川後楽園は昭和27(1952)年3月、文化財保護法により特別史跡及び特別名勝に指定されています。
都会の喧騒から離れ、静寂の中で季節によって違った景色が楽しめます。
寛文元(1661)年、光圀が34歳となったその年に、父 頼房が59歳でその生涯を終えました。
長い世子の時代に学問に励み道を求めてきた光圀は、父の跡を継ぎ、水戸徳川家第2代藩主の地位に就きます。
すぐに多年の学問を活用して藩政を改め、度肝を抜くような新政を次々と断行した。
…わけではなく、3年間父母の喪に服し、その間は従来の制度を少しも改めませんでした。
光圀の長年の学問は、”修身斉家治国平天下の道”
すなわち、
天下を修めるには、まず自分の行いを正しくし、
次に家庭をととのえ、
次に国家を治め、
そして天下を平和にすべき道
を明らかにすることでした。
光圀が3年喪に服したのは、まず身を正し父母に仕える道を践んだためで、そのため重大問題を除き藩政については旧政を改めなかったのです。
その後光圀は、水戸藩の儒者 吉弘菊潭(元常)や人見懋斎らに髷髪と改名を命じ、藩士として任務を与えました。
それは、儒者と士分との差別を撤廃し、藩士はすべて文武の道に励み、士として平時を問わず国に尽くすべき責任を課すという意味がありました。
これは、水戸藩を徐々に軍事的組織から官吏的組織に改編した父 頼房の事業を受け継いで理想的な体制を完成したもので、近世的文治主義の典型的形体といえます。
光圀は、学問を重視してはいましたが、常に鷹狩や山野を歩き回りながら身体を鍛えており、文武一致の気風を養いながら、家臣を愛し領民を労わりました。
光圀による仁慈の政治は武士だけではなく、町人に対しても行われています。
藩主になって間もない寛文3(1663)年、土地の低い下町では良い水が得られず困っておりました。
光圀は、平賀保秀という学者に近郊の良い水源地を探させ、笠原の山中から下町まで、約5,000mの間、石と銅の樋を通じて水道をさせました。これが笠原水道です。
名越時正・著『新版 水戸光圀』参照
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