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写真は、水戸市にある薬王院仁王門で、茨城県有形指定文化財になっています。徳川光圀が水戸藩主であった貞享5(1688)年頃、薬王院本堂を南向きから東向きに替えた際に移築・再建されました。
薬王院は、平安時代初期に桓武天皇の勅願により建立された天台宗の寺院であり、常陸三の宮 吉田神社の神宮寺です。 |
江戸時代には水戸藩の菩提寺とされ、中でも第2代藩主 徳川光圀による帰依は特に深かったようです。
21歳の若さで亡くなった妻の泰姫が薬王院に葬られたり(後に常陸太田市の瑞竜山へ改葬)、光圀によって薬王院の大改修が行われたり、光圀の希望から薬王院が関東八檀林の1つに昇格したりするなど、厚い信仰が寄せられていたことがうかがえます。
徳川光圀が15歳を迎えた寛永19(1642)年頃には、江戸の町も整備が進み、人口も増えて大変な賑わいを見せるようになっていました。商売も多様化し、大名や武士、町人を相手にする商いも繁盛するようになったようです。
例えば、金を払って湯に入り、湯女が体を洗ってくれる銭湯も町ごとに営まれました。
その銭湯以上に賑わいをみせたのが吉原遊郭で、125軒が軒を並べていたと言います。
若さを発散させ、乱暴ぶりを発揮していた光圀は、やがて登楼するようになりました。
また、光圀は酒もかなり強かったようで、大名仲間や家来たちから「人は酒に飲まれ、公は酒を飲みたまう」と評されたほどでした。ただし、酒や湯女に溺れるような性格ではなかったようです。
ちなみに、水戸藩主となった徳川光圀は、水戸藩内に初めて遊女屋を許可しています。
光圀は、遊女屋を洗濯屋と呼んだそうで、その理由には以下のとおり諸説あります。
説その1 | 入港する船の水主たちの洗濯を請け負っていた婦女子が、衣類の洗濯のみならず、その身をも売っていたことに由来。 |
説その2 | 水戸城の丑寅の方向(北東)からは悪気が流れてくるため、その方角にある町をにぎやかにして、悪気を洗い除くとしたことから名付けた。 |
説その3 | 気の荒い男たちの心の洗濯という意味から。 |
額賀せつ子・著『芸妓の今宵 水戸と太田の芸妓たち』参照
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