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写真は、水戸徳川家初代藩主 徳川頼房の頃、伊奈備前守忠次によって灌漑や千波湖の治水を目的に築かれた用水掘です。
伊奈忠次の官位である備前守に由来して、備前堀と名付けられました。 掘削から400年以上経った現在でもその役割を終えることなく、周辺地域では農業用水として利用されています。 また、1996年には新水戸八景の一つに選ばれました。 当時の面影を残しながら沿道の整備も進められており、市民の憩いの場として親しまれています。 |
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江戸に近い水戸領は、東北諸大名を警戒していた家康から重要視されており、その中心となる水戸城の城主に誰を
据えるかは、家康にとっても熟考が必要でした。
初代水戸城主とされたのは家康の5男 武田信吉でしたが、生まれつき体の弱かった信吉は、城主になって約10カ月
余りで病により21歳の若さで亡くなってしまいます。信吉には子女がいなかった為、家康の10男 徳川頼将(のちの
徳川頼宣)が水戸20万石を封ぜられました。
その後25万石を封ぜられ、頼将は水戸城第2代城主となりましたが、やがて慶長14(1609)年12月に駿府へ移され、
その後さらに紀州和歌山へ転封され、紀州徳川家の初代藩主となります。
第3代目の水戸城主として封ぜられたのは、家康の11男であり末っ子でもある 徳川頼房でした。
この頼房こそ、水戸徳川家 初代藩主となります。
頼房は、慶長8(1603)年に伏見城に生まれ、幼名を鶴千代といい、慶長11(1606)年11月、4歳で下妻10万石(一説
では5万石)の城主に封ぜられましたが、慶長14(1609)年12月、7歳の時に水戸25万石の城主に転封となりました。
7歳で藩主となった頼房は駿府城内で養育され、15歳頃江戸城内松原小路の水戸藩土屋敷に移り住んだとされており、17歳で頼房が初めて就藩するまで、実際の水戸藩政は父 家康の命を受けて派遣された人々により行われていたようです。
民政は関東郡代伊奈備前守忠次が担当し、彼は慶長15(1610)年に備前掘を完成させました。(写真は、備前掘・道明橋に建てられている伊奈備前守忠次像) |
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但野正弘・著『水戸城本丸史談―この丘の星霜―』参照
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