2019.05.16

【水戸の歴史 其の参】水戸城の起源

水戸城 説明 水戸徳川家の居城であった水戸城の城址(水戸市三の丸周辺)は、現在茨城県立水戸第一高等学校などが並ぶ文教地区となっていますが、土塁や堀、藩校弘道館、薬医門などで当時の面影を偲ぶことができます。

水戸城の起源といえる館は、平国香の子孫で吉田郡の豪族 石川家幹の次男 馬場資幹が、建久4年(1193)に源頼朝から常陸大掾職に任ぜられたことにより築いたとされています。

その後、応永23(1416)年に起きた上杉禅秀の乱において、当時の常陸大掾氏当主 大掾満幹は禅秀側に加担しますが、禅秀が敗れたことでその勢力が弱まり、足利氏側についていた江戸通房が水戸城進出を目指すようになります。

ついには満幹の留守中に、通房により水戸城を占拠され、馬場一族による水戸城支配は200余年で終了しました。


江戸通房が水戸城主となったのは15世紀後半と言われています。

通房は、現在の水戸市西方面を中心に一族や有力武将を配置するなどして水戸城の護りを固め、さらに通房以後も常陸南部や佐竹領の一部に領地を広げていきました。

水戸城については、江戸氏の本城である「内城」と、この「内城」を外郭とした「宿城」が置かれ、重臣の屋敷や町屋があったそうです。

通房の入城から7代160数年間、水戸城は江戸氏の領国支配の中心となりましたが、天正18年(1590)12月、太田城(常陸太田市)の佐竹義宣の討伐を受け、当時の当主 江戸重通は城を捨て、姻戚の結城氏を頼って逃げてしまいました。

これにより江戸氏の水戸城支配は終了し、佐竹氏による支配へと移っていきます。

但野正弘・著『水戸城本丸史談―この丘の星霜―』参照

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