【実践事例特集】では、デベロ老人福祉研究所がこれまでの研修活動で発表された事例等を基に、改めて
訪問入浴介護と照らし合わせてご紹介します。

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2013年(平成25年)2月16日(土)に開催しました第48回全国入浴福祉研修会の基調講演におきまして、「家族
への介護が生んだ奇跡の時間~十八歳からの十年介護~」と題し、フリーアナウンサーの町 亞聖氏にご登壇いた
だきました。今回はその時のご講演内容よりご紹介させていただきます。
| 本当に人生は、予期せぬことの連続です。私もまさか18歳という年齢で介護に直面することなど想像もしていませんで
した。私は3人兄弟で、弟が中学3年生で15歳、妹が小学校6年生で12歳の時でした。母はくも膜下出血という病名です が、20代、30代、40代の働き盛りでなる人が実に多い病気だと後になって知りました。 ▮ちょっとした出来事が大病だった 母はその時まだ40歳でした。私が今41歳ですが、私の年齢で大きな病気で倒れてしまい、一人で生活ができなくなって しまうことは、母自身もまさかそんな運命が自分に待っているなんて思っていなかったでしょう。父も41歳という若さで 伴侶が半身不随になったという現実から逃げ出さないでよく看護していたと、後になって思いました。母が倒れた日は、 私は高校3年生で3学期の始業式当日でした。寒い朝で、妹が「お姉ちゃんちょっとお母さんが具合悪いみたいだから起き て」と声をかけられたのです。母は本当に風邪一つ引かない健康な人でした。身長も170センチで体がガッチリしていて 見るからに元気そうな人だったのです。 見てみると様子がおかしい。声をかけたところ、目に見える症状が出ておりませんでした。「頭が重いからちょっと横に なっていれば大丈夫よ」と言っていたので、始業式ということもあり弟と妹を送り出し遅れて学校へ行きました。そのま ま母を、家に一人で置いてしまいました。父は弁当の配達という、朝4時前に家を出なければならない仕事をしていたの で、その時はすでに家にいませんでした。振り返るとあのときどうして救急車を呼ばなかったのか、今でも後悔をしてい ますが、見た目でわかるような症状がなく本人も「大丈夫よ」と私たちを送り出してくれたので、そのまま夕方まで時間 が経ってしまいました。 夜になっても 体調が良くならないということで、自分で歩いて父の車に乗って病院に行くことになりました。総合病院 に電話しましたところ「夜間診療をやっていますので、今から来てください」とのことで病院へ行きました。 今から考えると、母にとってそれが大きな運命の分かれ道でした。近所の夜間診療所は脳外科がなくおそらく手術もでき ず、みるみる容態が変わっていくのを家族は見守ることしかできなかったと思います。私が皆様の前で、10年間介護をし たという話をすることもなかったと思います。もしそこで母が命を失っていたら、その後の人生は私にとってまた違った 人生になっていたと思います。その総合病院には脳外科があり、東京の大学病院から先生が来ているということで、ちょ うど3年前に手術室や脳外科の手術をする機器が新しくなったときでした。今でも、本当に難しい手術だったと思います。 首の付け根の奥の血管が切れていたということなので、手術中に他の血管を触ってしまたらその段階で母は、手術中に死 んでしまうかもしれないというような危険な状態でした。おかげさまで手術は無事成功し、命を取り留めました。 手術後も予断を許さない状況が1カ月ほど続き、途中で脳梗塞を併発、一度心臓と呼吸が止まったそうです。学校にいる 時、私のところに担任の先生が「お母さんの容態が急変したから病院に向かいなさい」と。その後、人工呼吸器をつける 手術をし、蘇生して命を取り留めました。母は80キロあった体重が、病気をしている間に40キロを切りました。10代の 私たち3人の兄弟から見ると元の母ではない、しかも右手と右足の麻痺、言語障害がありました。母が最後にしゃべった 言葉は「今何時」と言ったのがおそらく最後だったような気がします。見るみるうちに声がかすれて、言葉が「あー、あ ー」と出なくなり、そして右手右足が麻痺しました。 ▮母と向き合った介護生活 現在はベッドサイドリハビリと言って脳梗塞で倒れても当日からリハビリを始めますが、当時は容態が安定するまでとい うことで、多少は手を伸ばしたりはしていましたが、本格的なリハビリは全くやっていなかったので、見るみるうちに手 も硬直して曲がっていき、右足も突っ張っている状態でした。 最初は自分でスプーンを口に運ぶこともできません。私がご飯を食べさせ、おむつを替えたりしていました。私だけがや っていたかというと、父も一生懸命で病院に泊まり込みました。どうしても父は母のそばにいたいということで、寝袋を 持って病院の待合室に寝て、母のそばにいて、朝4時に病院を出るという生活を父も2カ月しておりました。 それで始まった私たちの介護生活ですが、その当時は病院に長く入院できるときでした。20年前ですので、リハビリの 病院にも8カ月ほど入院しました。病院である程度、自分が片手で洋服を着替えたり歯を磨いたりと身の回りのこと、自 分で洋服をたたんで引き出しに入れるなど、一通りのリハビリをしました。 母は病院で一人頑張っていました。6人部屋ですが言葉が出ない中、皆様に囲まれてコミュニケーションはなんとか取っ ていたと思うのです。自分の細かい思いは伝えることができない状態で、よく1年近く頑張ったと思います。体重もやや 増して、自宅に戻ってくることができました。 母の戦いは、家に帰ってきてからが大変でした。当時はバリアフリーという概念もありません。道路は段差で今は車道 と歩道は自転車で乗り上げる時段差がいっぱいありました。もちろん障害者用のトイレも当時はありません。 私の家も、母の車いすを反転できない狭さだったので、ちょっと倒れるとどこかに頭をぶつけてしまう状態でした。私 たち兄弟も学校に行かなければならないし父も仕事をしなければならないので、なんとか母が自立して家族がいない時 間を安全に過ごせるように心がけました。そして一生懸命、母に向き合い兄弟に向き合っていたと思います。 ▮家族が介護することが普通の時代 母にとっては不幸なことが起きてしまったのですが、もし母が病気にならなければ、家族から離れて自分の人生だけを 考える生き方をしていたように思います。母が病気になったおかげで、私は大学に行きアナウンサーにもなることがで きたと思っております。母に本当に感謝してもしきれない思いでいっぱいです。母と向き合う生活の中で、私は発想の 転換をするようにし、自分の気持ちを軽くするようにしてきました。介護で大事なのは、発想の転換です。母の介護を していたときはまだ介護保険制度もなく、受けられるサービスは皆無でした。家族が介護することが当たり前の時代で、 他のサービスを受けるという選択肢がない状態でした。自分の時間の多くを母に取られてしまうのですが、できないこ とではなくて、できることを数えようと心掛けました。それは母もそうですが、左手しか使えません。でも左手ででき ることはあります。右手が使えないからこれができなくなったではなく、左手があれば左手でもできる。私たち家族が いなければ、母は何もできないのではなくて、私たち家族がいれば母は何でもできるというように考え方を変えるよう にしました。できることは数えていくということはすごく大切と思い、母と父のいない今も心がけている一つの発想の 転換です。 ▮母として女性として、その人らしく もう一つは、母は母としてちゃんと扱うこと。これは本当に妹と弟、父にも口を酸っぱく言いました。父はどっちかと いうと、母が障害者になってしまったことがすごく悲しく、心にしこりを残していたようでした。言葉が不自由でもお 母さんはお母さんとして扱おうということをみんなで合言葉にして、母として扱うようにしました。 そうなると不思議なもので、しっかり母親の自覚が戻ってくるのです。倒れて状態が落ち着いて良くなってきたのは、 3、4年目からです。お年寄りも化粧をすると表情が明るくなり、意識が目覚めるときがあるんです。母も、あるとき私 が横で化粧をしていたら、私の化粧品を取って顔に自分で塗り始めたのです。その当時はベッドで寝て過ごす時間も多 いので、ピアスをしたり化粧をするのを嫌がっていたのですが、アイシャドウをしたりピアスもしたいと言い出し、こ れはもう元のお母さんに戻ってきたという感じでした。3年たってからは、車いすに座っているのですが周りの人も「お 母さん足が悪いの」という感じで、見た目にも障害者のような雰囲気というのは徐々に消えていったのです。介護が必 要な人として扱うのではなく、その人らしく扱うことが大事なのではないかと、母の介護を通して思っています。 そしてもう一つは、母の今を受け止めてあげることも大事なことだと思いました。母が元気になる夢を、私は何度も見 ました。夢の中で「お姉ちゃん朝よ、ご飯できたよ」と言って、お母さん治ったんだと起きると現実があるわけです。 私自身も夢を見たのですが、おそらく本人はもっとたくさん自分が元気になる夢を見たのではないかと思います。周り の私たちが、いつまでも元気なお母さんを求めていると、できないことが増えてもどかしくて、焦って悲しいのは本人 なのです。いつまでも私たちが元気な母を求めてはいけないというふうに思いました。車いすに座っていても母だとい うことを受け入れてあげるということを心がけるようにしました。 そうすると、自分の人生も好転し繋がるといういうことに気づいたのです。母に起きた現状を受け入れられないという ことは、自分も現状を受けれていないことだと思うのです。発想の転換を介護が始まった段階で何をするかというのは、 年齢に関係なく、介護している方は発想の転換を早くしてもらうことが大事だなと、自分自身の経験からも思っており ます。 ▮夢を叶えるためには、諦めないこと 介護と学校を両立させるということをやり切ってしまったので、やり切ってしまったら、できたというふうに言えるの ですが、やはり大変でした。でも、どちらかをあきらめるという選択肢もありませんでした。介護が辛いからやめると いうこともできません。介護に時間を取られるから学校を諦めると言ったら、それは私が10代、20代で自分の人生を 諦めることになるのでそれもやらなかった。解決策にはなりませんが気持ちの部分で介護をしている人が支えになると いうことは必要だと思いますが、私の中で支えになっていたものはアナウンサーになるという一つの夢がありました。 大学時代に母の車いすを押して過ごす中で、今まで見えていたものを見て見ぬ振りをしていたことにもたくさん出会い ました。杖をついて歩いている人、今は車いすの人がたくさん外出をしている時期ではなかったのですが、母を連れて 行くと街中では車いすの人に目が向き、今まで私は気づかないことが、母と一緒に歩くようになって気づきました。 公共の乗り物に乗せてみたのですがバスがまだノンステップにもなっていない頃、人が乗っていなく、迷惑のかからな い時間帯にちょっと乗せようとしたら、段差で足が上がらなく、乗るのに5分ぐらいかかり、しかも泣き叫ばれて「も ういいよ、もういいよ」と言われました。本当にバスの運転手さんには、ご迷惑をおかけしました。 ただ体が不自由だから、家に閉じこもっていては世界が広がりません。嫌がらないで一緒に外出したのですが、そうい うチャレンジをしながら周りの人にも、車いすの人もこうして普通に社会で活動しているいうことを知ってもらいたい という思いもありました。今、車いす用トイレは普通に男女の真ん中にありますが、当時、葛西臨海公園がバリアフリ ー化が早く、車いす用駐車場もいち早くあり、車いす用トイレもちょうど男女の真ん中にありました。車いす用トイレ があっても、利用する人の意識が変わっていかなければなりません。ある日、母を葛西臨海公園に連れて行くと車いす 用トイレに長蛇の列ができていたのです。 今は皆様の意識が、すごく変わったのだと思います。車いす用トイレに普通の人が並んでいる景色は、街中では見かけ ないと思います。そこは赤ちゃんがいる人やお年寄りが使うということが、普通になったと思うのですが、20年前は車 いすのトイレも、空いていたらトイレです。使う人にとっては。母を連れて行くと「ああそうよね」っておばさんが言っ たのですが「車いすの人も来るのね」という意味と思うのです。そういう意味で障害を持った母、母の生活で一体何が 不便なのか世の中に訴えていかなければ変わらないと思いました。 ▮やさしい母との時間 自然の中にも、連れて行きました。海や梨狩りにも行きました。梨狩りは車いすで梨を取るのにちょうどいい高さで、 たくさん梨を取って嬉しそうにしていたのですが、取った梨は全部買い取らなくてはいけない。「お母さん、全部買い 取らなきゃ」と言ったら、慌てて下に置きました。とてもお茶目な母で、愛嬌がある女性です。脳梗塞の病気をします と、わがままになりやすいと看護師から言われていたのですが、母はそんなところが一切なく、本当に私たち家族を救 ってくれました。 母のリハビリで油絵教室に行ったり、障害者センターに行って、車いすの人やご家族と仲良くなったのですが、皆様癇 癪持ちだったり若くして事故で頸椎を損傷し、私よりちょっと歳が上のお兄さんで車いすの人とか、やはりどこかでも どかしさがあって家族にあたってしまうようなシーンをよく見かけたのです。 おかげさまで母はそういうことはなくそんな母がいてくれたので、私たち家族は生きていたのかと思っています。そし て一番の大きな理由は、母がいい人だったからだと思います。 ▮父と思いやりと妹の思い ここで、弟・妹の話を紹介させていただきます。母が倒れた時に中学3年生で高校受験を迎えていた弟なのですが、い ま消防士をしています。母の病気によって一番人生を変えられたというか、変わったのは弟でした。今、公務員として 務めています。 そこで父のエピソードがあります。父も弟に大学に行って欲しかったということで、消防士になることを認めなかった のです。弟は後に救急隊員になり救急車に乗っておりますが、そのような弟の姿を見て父はやはり立派だなと思ったら しく、しばらく経ってから「うちの息子は消防士で救急隊員でして」と自慢していました。本当に弟は、やさしい男に 育ってくれました。私の介護が役に立ったのは、一番下の妹が相談相手になってからでした。私が就職したら大黒柱に なるので、お兄ちゃんが働くまでは私が家のことを全部みるから、私が就職をしたら手伝ってと妹には約束していまし た。 中学校・高校時代に妹は部活や、友達とご飯を食べに行ったりすることも全然気にしないでいいからと約束をしていま した。妹がやりたい時にやればいいからいつか必ず妹の手を借りなければならない時が来るから、その時は助けてとい うことで私が意識してどうか、そうしたほうがいいと自分で決めました。 結果的に、それはすごく良かったのです。妹自身も高校生活を謳歌し、私もアナウンサーになったので妹にも半分家事 を手伝ってもらうようになったのです。妹が介護を手伝うようになった時、やっぱり一人で私が抱えていたのかなと思 いました。 そして母は後遺症が残りましたが、みんなが思うほど大変ではありませんでした。穏やかに毎日、母の笑顔に癒されな がら過ごしました。そんな母にもう一度大きな病気が襲いかかりました。 ▮家族への告知とがん治療 病名は子宮頸がんでした。母が一回目の病気をした時に、病院の先生から「お母さんは子宮がんになりやすいから気を つけてね」と言われていたのです。なぜかというと、子宮頸がんが前がん状態というのがあって、子宮が炎症している 状態が続くと、がん化することがあるそうです。母はそういう状態があって先生が気にしていたと思うのです。 その当時は私にそんな知識もなかったので、そうですかと言って、がんになりやすいってどういうことなのかと、とっ さに理解ができてなかったのだと思います。ある日、夕食を食べていたとき母がトイレに立ち上がったら、ちょうど着 ている服も座布団も黒で見えなかったのですが、血がしたたるように出血していました。ただ事じゃないということで 近所の病院に連れて行きました。先生が内診をして、第一声が「何でこんなになるまで放っておいたの」というのが、 私が受けたがんの告知でした。 こんなに出血しているのに、母は痛みがなかったみたいで何で気づいてあげられなかったのだろうと、今でも後悔をし ています。がんの取材をずっと続けているのも、母のように手遅れになり、子宮頸がんで亡くなる人をゼロにしたいと いう思いがあり10年以上続けています。 私たち3人は、母を通して生きるということを考えさせられることになりました。母の病気がわかって、しかも助から ないことを、私が家族に伝えなければならなかったのです。 弟に「お母さん、がんなんだ。もうだめだわ」と、弟はその時「お姉ちゃん、人生は長さじゃなくって深さだから、 できるだけ元気なお母さんの姿を多くの人に見せてあげようよ」と言ってくれました。その時弟はもう救急隊員になっ ており、私よりも人の生死というものを、仕事の現場で数多く見ていたのだと思います。その弟の言葉を聞いた時、一 回目に直面したときよりも、本当に立派になったと思わせてくれました。 一方、妹に母の病気のことを告げたら妹は「もう悲しい情報は私は教えないで、いいことだけ教えて」と、弟とは違う 反応だったのです。妹は母が大好きで二十歳で母と一緒に過ごす時間が一番多かったのが妹で、私よりも妹がいろいろ な思いを抱えていたのではないかと思っています。 病院で放射線の治療と、抗がん剤治療をお願いしました。このまま治る病気でがないということを、理解した上で治療 をしました。いつか治療を切り替える日がくるのだと覚悟をしていたのですが、余命半年と言われ1年半頑張りました。 言われたよりも母は、3倍頑張って生きました。 途中、決断をしなければならない時が来ました。それは、3回目の抗がん剤治療をする日だったのです。抗がん剤とい うと当時は副作用が強く、副作用を抑えるということがおろそかにされていました。 今は、抗がん剤治療も副作用対策が進んできていますが、当時は母も抗がん剤を打った瞬間から吐き出したり、髪の毛 が抜けたりして副作用の方が大きかったのです。3回目の抗がん剤治療をする時に「先生、このまま治療をすると、母が 死んじゃう気がするので、治療をやめたいんです」ということを、勇気を持って先生に言いました。先生も母の血液の 検査の結果を見て、状態が良くないということは気づいており「そうですね、そうしましょうか」ということで、治療 をやめる決断を家族ですることになりました。 ▮家で看取るための準備と緩和ケア これで母を自宅で看取ることができると私は思いました。私はどうしても母を病院で死なせたくなく、家に連れて一週 間でもいいし、本当に1日でも2日でも3日でもいいから、最後まで母を家で過ごさせてあげたいと思っていたのです。 そして近くに緩和治療があったというのはラッキーで、先生に家族が面談を受け何かを決めるごとに家族で2時間程話し 合いをしました。なぜかというと、やはり家で看取るということは、何かあった時にその時を家族で迎えるという可能 性の方が高いわけです。その時に家族だけでそれを受け止められる覚悟ができるかということを、先生が一人ひとりと 話す中で見極めたいというのをやっていたそうです。私に全面的な決定権があるので、私はどうしても家で看取りたい と、妹は「お姉ちゃんが言うなら従います」弟が医学的な知識がありましたので「何かあった時に先生が駆けつけてく れれば」と、父だけは「何かあったらどうすんだ」ということでしたが、みんなでやれば大丈夫だからと父を説き伏せ ました。先生も、あなたがいるかた大丈夫ということで、最期を看取る準備をしていました。 看取る準備で、高カロリーの点滴を打つためのチューブを埋め込む手術をし、もう一つ大きな決断だったのは、人工肛 門の手術です。末期がんの母に担当の先生はやろうという決断をしてくれたのです。なぜかというと、子宮頸がんが大 きくなってしまい、腸を巻き込むように腸を握る形で広がっており、下剤を飲んでも効かないのです。腸が詰まって、 いつ腸閉塞を起こしてもおかしくないという状況で、最後の手段として人工肛門にすることになりました。 全身麻酔で白血球も下がっています。メスを入れることでがんが大きくなるかもしれないというあらゆるリスクを聞い た上で、快適に過ごすためには排便の苦痛を取り除いた方がいいのではないかということで、母はその時にがんとわか っていたと思うのです。ただ母には病名は伏せていました。自分の言葉で細かい気持ちが表現できないので、告知する ことがいいのかということで、先生と話し合って告知しないことに決めたのです。 人工肛門の手術をするときだけは、母に絵を描いて渡して、ここに腸が出て来てここから便が出るようになるのだよと 説明をしました。でも母がやりたいかどうか、やりたくなければやらないから一日考えてと言って、翌日、本人にどう するか聞いたら、やると言ってくれたので私たち家族が覚悟をして本人が決め、先生の英断で人工肛門の手術をしてく れました。 母には小さなラッキーがついています。手術が成功し最後の一カ月半、排便の苦しみから解放されました。母は本当に かわいいのです。そこから便が出てくることは不思議で、私たちを呼ぶと「ほらほらっ」と、便が出てくるのを楽しそ うに見ていました。そういうところも母らしく、そのような状態になっても明るさを忘れないで、私たちを励ましてく れる母でした。 ▮短期間の訪問入浴介護 そこで訪問入浴介護ですが、母は片麻痺だったので湯船にずっと浸からせたことがなかったのです。どうしてもお風呂 に入れてあげたいと思い、近所に訪問入浴介護があるということを、病院の先生に紹介していただき、お願いすること になりました。その時は早く依頼すれば良かったと思ったのは、事前に当日訪問するスタッフが来てくださり、浴槽を どうやって家の中に持ち運び、どこに設置するか。母に対して直接「お風呂の世話をさせていただくものです」と挨拶 をし、訪問入浴介護の順序を説明していただき私も感動しました。母も顔を一度見せてくれたスタッフが入浴を手伝っ てくれるということで、すごく安心したという記憶があります。 そしてお風呂に入れていただいたときも、最初は泣き叫んでいたのですが、ふっと入った瞬間に気持ちよかったみたい で「あら、ほんとだわ」と言って気持ち良さそうな顔をして、お風呂に入れていただきました。残念ながら母に残され た時間はわずかで、訪問入浴介護を2回しか、利用することができませんでした。もっと早く利用しておけば良かった と、訪問入浴介護に関しては思っています。日本の介護方針も在宅に向かっています。何が大変かというと、一番大変 だったのは食事と入浴でした。そこをどうやってサービスを上手く使いながらやるのか、お風呂できれいに爽やかにな るというのは人間の根源ではないでしょうか。 そのようなことをあまり言わなかったで、足を洗い体を拭いて済ませていたことが多かったのですが、訪問入浴介護は 周りで介護している人がいたら老人の介護でなくても使ったらいいので教えてあげたいと思っています。 最後に母はがんという病気で命を落とすことになりましたが、がんは不思議な病気で交通事故など一瞬に命を奪われる こととは違って、時間がある病気でした。訪問看護の方が1カ月半、来てくださいましたが、その1カ月半のながで緩や かに母の状態がこうなりますということを私たち家族に丁寧に説明してくださいました。いきなり母が死ぬということ を受け入れたわけではなく、そういった医療関係者のサポートがあって、心づくりを私たちも整えながら、消え行く母 の命の灯を消えないように思いながら過ごした1カ月半でした。本当に家族だけでは、乗り切れなかった母の介護でし た。その支え手になるのは、介護に携わるスタッフの皆様です。「血がつながっていなくても同じ方向に向いていたら 家族です」これは以前取材したグループホームを経営している女性の言葉ですが、私はいつもそれを思っています。 家族でも実は同じ方向を向けない家族もいます。介護がきっかけで離婚し、子どもの病気がきっかけで離婚してしまう 夫婦もたくさん、これまで取材で見てきました。 これからは核家族化も進んでおります。私も母には私がいたように、私はまだ独身ですので介護してくれる人、パート ナーを早く見つけないと私の将来の介護がどうなるのかと焦っているのですが、血がつながっていなくても家族、仲間 にはなれます。ぜひそういう思いを持って介護が必要な人に、向き合っていっていただければと思います。
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※出典:入浴福祉研究 第46号(2013年(平成29年)7月発行 編集・発行所:デベロ老人福祉研究所/日本入浴福祉研究会事務局
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訪問入浴介護のサービス時には、事前にバイタルチェックを行います。以下にバイタルサイン測定時の注意点を掲載
しますので、お役立てください。

出典;老年看護ぜんぶガイド 八島 妙子著(株)照林社 (P.112より引用)

▲出典:訪問入浴介護の実践マニュアル「高齢者のからだのしくみとお風呂の効果編」株式会社デベロ

▲出典:訪問入浴介護の実践マニュアル「高齢者のからだのしくみとお風呂の効果編」株式会社デベロ
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訪問入浴介護は、3人(看護師、オペレーター、ヘルパー)1組で入浴介護を行うチームケアです。お互いの職種を
把握することはもちろん、性格や考え方を理解することは生産性とサービスの質の向上のために大変重要です。

▼訪問入浴サービスご案内(動画)

『入浴』と『看護・介護』の力の集結!!訪問入浴介護サービスの力
訪問入浴介護のサービス提供時には、入浴介助に伴って様々な『付帯的なサービス』が行われています。
全身観察身体の状況を確認する最大の機会看護師を中心に褥瘡等の早期発見・予防など、あらゆる観点から確認します。
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生活支援の側面寝具等ベッド環境の整備離床する際に、シーツ、枕カバーなどの交換が行えます。不衛生になりがちなベッド周りも清掃して、環境を整えることができます。
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身体介護の側面ご家族へのアドバイス寝たきりである利用者への清潔な下着や着衣の交換はもちろんのこと、「スキンケア」や「体位の交換」といったご家族への適切なアドバイスも。
入浴中は温熱作用、浮力・粘性作用により関節も動きやすくなりますので、状況によりマッサージなどを行う場合もあります。
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全身の整容と向き合う入浴で清潔の保持はもちろんですが、洗顔、ひげそり(電気シェーバーにて)や爪切り(疾患のない爪)など、全身の整容を考えてサービスが実施されます。
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