2019.11.21

【水戸の歴史 其の弐拾玖】最後の将軍 徳川 慶喜 ―まとめ―

当時幕府が抱えた最大の問題は、諸外国との通商条約の勅許をいただくことでしたが、朝廷はあくまで攘夷の遵守を求めていました。

将軍後見職にあった慶喜は、文久2(1862)年9月の幕議において攘夷か開国かでもめる中、整然と道理を説きながら開国を主張し、自ら上洛して朝廷を説得することを求めましたが結局は果たせませんでした。

元治元(1864)年3月、朝廷は慶喜に将軍後見職を免じて禁裏御守衛総督に任じます。慶喜は7月の禁門の変、12月の天狗党討伐を指揮しましたが、第2次長州征伐に失敗しました。

そして、兵庫開港をめぐって諸外国の圧力が高まる中、慶応2(1866)年1月に薩長同盟が成立したことを機会に、倒幕運動が具体的な展開を見せはじめます。また、政情不安から「ええじゃないか」騒動が東海道や畿内を中心に広まり、各地で一揆や打ちこわしが頻発しました。

そのような中、同年12月5日に将軍宣下を受け、慶喜は何度も拒み続けた将軍職に就くこととなります。しかしその20日後、常に慶喜に信頼を寄せ、幕府との協調による国政の安定を願っていた孝明天皇が突然崩御され、このことは慶喜にとって大きな痛手となりました。

慶応3(1867)年10月14日、“かねて覚悟の”大政奉還を上奏し、家康以来260余年におよんだ江戸幕府の終わりを迎えます。次いで、小御所会議での決定に反発して激昂した幕臣らを抑えきれず、鳥羽・伏見に戦端を開くことになりました。戦いに敗れた慶応4(1868)年1月6日、側近数名とともに大坂城を脱出し、12日に江戸城へと逃れます。

そして慶喜は朝敵となってしまいました。

そんな慶喜を追って江戸城を訪れたフランス公使レオン・ロッシュは、フランスの後援を約束し、再三に渡り対薩長の挙兵を促します。しかし慶喜は、「いかなる事情があるにせよ、一度朝廷の命令が下ればこれに服従するのはわが国の国柄である」として、これを謝絶しました。

その後、寛永寺の大慈院~江戸城が明け渡されると水戸の弘道館~静岡へと移居し、60歳になるまで一切政治とは縁を切ります。

 

慶喜には様々な評価がありますが、大政奉還の決断、そして水戸家に代々伝えられた「朝廷と幕府が戦いになった場合でも、絶対に朝廷に弓をひいてはならない」という家訓を拠り所とする一意恭順の姿勢が、大規模な内乱とその結果起こるであろう諸外国による干渉を排除し、わが国の統一と独立を維持する土台となったと言えるでしょう。

慶喜は、大正2(1913)年11月22日、享年77歳で逝去し、その墓は寛永寺(台東区上野)近くの谷中にあります。

水戸市教育委員会『水戸の先人たち』参照

 

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