2019.11.14

【水戸の歴史 其の弐拾捌】最後の将軍 徳川 慶喜 ―青年時代②―

修好通商条約締結問題に苦しんでいた幕府は、朝廷の許可を得た形での締結を目指していましたが、大老 井伊直弼は勅許を得ることなく締結を断行してしまいました。

そのことを受けて一橋派は、朝廷を介してその政治責任を問い、井伊の追い落としをはかりましたが、逆に井伊の弾圧を受けることとなってしまいます。安政5(1858)年から安政6(1859)年にかけて、斉昭らには永蟄居(城や屋敷の外に一生出られない処分)、慶喜や水戸藩主 慶篤らには隠居謹慎の処分が下り、水戸藩家老 安島帯刀らの藩士たちは処刑されました(安政の大獄)。

慶喜は、この一連の騒動に巻き込まれた形であったので全く納得できない中での処分であり、抗議の意思を込めた謹慎生活を送ることになります。その生活は、安政7(1860)年3月3日、井伊が江戸城桜田門外で水戸藩の浪士らにより襲撃・暗殺された(桜田門外の変)後、万延元(1860)年9月4日に解除されるまで続きました。

斉昭については、慶喜の謹慎が解除される半月程前の安政7(1860)年8月15日、宥免されることなく水戸城で生涯を終えました。

さらにその2年後の文久2(1862)年、朝廷の権威を後ろ盾に幕府人事に介入してきた薩摩藩の後押しで、慶喜は将軍後見職に就任し、このことが慶喜にとって大きな転機となるのでした。

安藤優一郎・著『徳川慶喜と渋沢栄一 ―最後の将軍に仕えた最後の幕臣―』参照

 

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