2019.11.07

【水戸の歴史 其の弐拾漆】最後の将軍 徳川 慶喜 ―青年時代①―

嘉永6(1854)年6月3日、アメリカ東インド艦隊司令長官 ペリーが軍艦4隻を率い、開国を求めるフィルモア大統領の親書の受理を迫って、浦賀沖に姿を現します。ペリーは、9日に浦賀近くの久里浜へ上陸しますが、幕府に親書を受理させたのち、12日になってようやく浦賀沖を去りました。

ところがその直後の22日、12代将軍 家慶が死去してしまいます。

その跡を継いで嫡男の家定が13代将軍の座に就いたのは10月23日のことでした。

この頃幕府政治を主導していたのは、備後国福山藩主で老中首座を務める譜代大名 阿部正弘でした。

阿部を首班とする幕閣は、対外問題には挙国一致で臨むことが必要という認識の下、親書を諸大名に提示して意見を徴し、中でも特に斉昭に意見を求めました。そして、斉昭は海防参与として幕政に関わることとなります。

斉昭というと、尊王攘夷論の御元のようなイメージが強いですが、それは水戸学の存在が大きかったからです。慶喜によれば、どうやら斉昭の攘夷論はもともと藩政改革の口実に過ぎなかったようですが、当時の水戸学は“内憂外患という困難にどうやって対処すべきかを追求する学問”となっていました。

そのため斉昭は、攘夷派の志士たちなどにより神格化され、まつりあげられてしまいました。

そして彼らだけではなく、従来幕府政治に関与できなかった諸大名からも期待されるようになります。

親藩・外様大名は、アメリカ大統領の親書に関して諸大名に意見が求められたことをきっかけに幕政への進出をはかっていたので、海防参与の斉昭を前面に押し出すことで、幕政への発言権を確保しようと目論んだのです。

幕府にとって、次の課題は貿易開始を意味する修好通商条約でしたが、外国に強要されて貿易を開始したという批判から逃れるため、朝廷の権威を利用しようとしていました。このような手法は、朝廷や天皇の権威を浮上させるので、朝廷を介して幕政に影響を与えようとする親藩・外様大名の動きも活発化させることになりました。

さらにその動きを加速させたのが、30歳を過ぎても跡継ぎが誕生しない家定の後継者問題であり、次の将軍に慶喜を推す親藩・外様大名が中心の一橋派と、家定の従兄弟で紀州藩主の徳川慶福(のちの家茂)を推す譜代大名が中心の南紀派が対立することになりました。

しかし、譜代大名筆頭の彦根藩主 井伊直弼が家定から大老に任命されることで、南紀派の勝利で終わりを告げます。

こうして安政5(1858)年12月1日、慶喜22歳の時、13歳の徳川家茂が14代将軍の座に就くことになりました。

安藤優一郎・著『徳川慶喜と渋沢栄一 ―最後の将軍に仕えた最後の幕臣―』参照

 

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