2019.09.26

【水戸の歴史 其の弐拾壱】水戸藩6代藩主 治保と7代藩主 治紀

水戸徳川家藩主においては、2代 光圀と9代 斉昭が傑出した存在でありましたが、今回は斉昭より前の6代 治保と9代 斉昭の父である7代 治紀をとりあげます。

6代藩主 治保は、寛延4(1751)年に5代藩主 宗翰の長男として生まれ、明和3(1766)年、16歳で藩主を継ぎます。

それから文化2(1805)年に亡くなるまでの40年に及ぶ治世は、初代 頼房の53年間に次ぐ長さでした。

前代にも増して藩の財政危機が深刻になり、それは安永7(1778)年に幕府から財政立て直しの非常措置を命令されたほど。天明3(1783)年に始まる天明の大飢饉により、さらに強力な改革が求められることになります。

また、寛政2(1790)年11月、治保は藩主就任25年目で初めて水戸の地を踏みましたが、その費用も領内へ御用金を課すことによってようやく調達されたものでした。

治保は、藩主の禄を半分にカットする(半知借上)などの緊急策を実施するとともに、献上した者を郷士として取り立てる制度も実施しました。その数は、治保時代だけで20人にも上ったそうです。

人口減少で荒れた農村の復興策としては、3人以上の子供がいる農民に稗(ひえ)を支給する制度の拡充や、「間引き」防止のため、出産届等を厳重にしました。

また、郡部業を増やすなどの軍制改革も実施しています。水戸城下の振興策として、いわゆる「江戸仕掛け」を展開しました。春秋の馬市開催、江戸芝居や相撲興業などで城下に一時的に活気をもたらしましたが、倹約第一の政策を進めていた幕府により1年も経たずに中止されました。

一方で、停滞していた「大日本史」編纂事業を軌道に乗せ、藩内に学問を奨励しました。治保自ら学習するとともに、毎朝「大日本史」の校訂にあたったそうです。

また、藩士に対し城内で彰考館の学者による講義を始めたり学力試験を試みたりするなど、学問重視・能力重視の姿勢を明らかにしていました。町人だった藤田幽谷や農民の長久保赤水などを、その学識ゆえに藩士に取り立てました。

さらに立原翆軒ら彰考館の総裁3人を政治顧問として招き、実際の政治に学者の意見を反映させようとしました。

こうした空気のもと、翆軒やその門下の幽谷などが折からの農村復興や蝦夷地での対ロシア政策など、藩内だけでなく藩外の問題にも積極的に発言するようになっていきます。

治保自身も藩政だけでなく幕府政治に直接関わっていくようになり、一橋家の治斉や尾張家の宗睦との共同提案により、白河藩主 松平定信を老中に推挙したことなどもその1つです。

対照的に7代 治紀は、水戸藩において最も在職年数が短い藩主でした。

安永2(1773)年、治保の長男として生まれ、文化2(1805)年に33歳で藩主となりますが、11年後の文化13(1816)年に亡くなっています。

藩主就任直後の文化3(1806)年秋から翌4(1807)年春にかけて、ロシア海軍が蝦夷地を攻撃、略奪をはたらいた為、東北諸藩に出兵命令が出され、その翌年夏には鹿島灘に異国船が接近するなど、対外危機が迫りつつありました。

治紀はさっそく水木・川尻(日立市)に海防詰所を開設し、有事即応体制の整備に取り組んでいます。

文化6(1809)年に初めて水戸の地を踏むと、精力的に領内を巡視するかたわら、城内で歩兵や騎兵による訓練を毎月行い、翌年2月には全隈(水戸市)で鹿狩を実施しました。狩とはいうものの、弓矢・鉄砲隊も組織し、全体の進退は全て「軍法陳列ノ如し」(水戸紀年)と、実質的には軍事訓練で、参加人数は藩士の二男・三男に至るまで、数千人にのぼりました。また、この年の暮れには、有事の際の作法や人馬割を定めました。鹿狩も以後治紀亡くなるまで、年1回の藩の恒例行事となります。

次に取り組んだのは、父 治保が試みながら軌道に乗せられなかった学問の吟味です。

教育は城下の私塾に任せましたが、その習得状況を目付に提出させ、塾の師匠の推薦があれば、毎月1日と15日に彰考館で行う「素読」と「講釈」の吟味(検定)を受験させるというものでした。吟味には、藩の重役も同席することが義務付けられました。

9代藩主 斉昭は、藩校弘道館開設などの文京面や、大規模な軍事練習「追鳥狩」の実施などの軍事面の政策で全国にその名を知られましたが、それらの文武両面にわたる政策の先駆けとなったのは、「文公」と諡された祖父 治保と「武公」と諡された父 治紀の政策であったといえます。

水戸市教育委員会・著『水戸の先人たち』参照

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