2019.09.12

【水戸の歴史 其の拾玖】偕楽園の開園

一般社団法人 水戸観光コンベンション協会HP より出典

写真は、水戸市の偕楽園です。

岡山市の後楽園、金沢市の兼六園とならぶ「日本三名園」の1つとしても知られており、毎年開催されている水戸の梅まつりの期間には多くの人で賑わいます。

梅まつりの期間中はライトアップや茶会など様々なイベントも行われます。

”領民と偕(とも)に楽しむため”に偕楽園を造った斉昭公の思いを感じつつ、園内を散策してみてはいかがでしょう。


偕楽園の造成計画が具体化するのは、斉昭が天保4(1833)年に初めて水戸へ帰藩した時からでした。

「偕楽園記」には、

余かつて吾が藩に就き山川を跋渉し原野を周視す。城西に直りて開豁なる地有り。”

とあり、斉昭はこの頃(1833年頃)から領内を巡視しながら公園を造成する場所を選んでいたことがうかがえます。

また、当時の水戸領内には梅樹が少なかった為、斉昭は江戸に戻ってからしばしば多種類の梅の実を水戸へ送り、植物系の長尾景徳(左太夫)に命じて育成させました。

斉昭から景徳への手紙には、

梅の種子を735粒送る。桃の実も薬園に埋めておき、台木に仕立て実のよい梅を年々接いでいけば、水戸でも数が増える。接ぎ木は特別花開きも早く、桃の本の台に接いでも深く植えれば根となり長持ちする。

と記されていて、その用意周到さがうかがえます。

天保4~5年に梅樹の植林・増植から始められ、その梅樹を偕楽園の主体として天保12(1842)年4月に造園工事の着工となりました。偕楽園の一隅には好文亭も建てられ、1年余り後の天保13(1842)年7月1日までに完成・開園となったそうです。

偕楽園に梅樹を多く植えさせたのは、斉昭が特に梅を好んだからです。

偕楽園の命名については、

中国の古典『孟子』の「古の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節からとられ、

是れ余が衆と楽を同じくするの意なり。因ってこれに命じて偕楽園と曰う。

と「偕楽園記」に記されています。

安見隆雄・著『水戸斉昭の「偕楽園記」碑文』参照

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