2019.09.05

【水戸の歴史 其の拾捌】烈公 斉昭の改革と弘道館

写真は、旧水戸藩の藩校 弘道館です。

開校当時の敷地面積は約10.5haと大変広く、藩校としては全国一の規模を誇りました。敷地内には、総合的な教育施設にふさわしい様々な建物や設備が整備されました。

戦火を免れた正門、正庁、至善堂は、昭和39(1964)年に国の重要文化財に、現在の約3.4haの区域が「旧弘道館」として国の特別史跡にそれぞれ指定されています。

また、平成27(2015)年4月には

「近世日本の教育遺産群―学ぶ心・礼節の本源―」

の構成文化財として、日本遺産に認定されました。

弘道館HP参照


斉昭は水戸へ下って直接藩政を指揮したいと切望しておりましたが、ようやく実現したのは藩主就任の4年後、天保4(1833)年でした。しかしこの年から7(1836)年まで、幾度かの凶作にみまわれ成果が収められなかったそうです。

翌8(1837)年、改革の必要性をあらためて藩士に自覚させるため、改革の4大目標を掲げました。

 第1「経界の義」:田畑の経界(境界)を正す意味からの全領検地

 第2「土着の義」:藩士を水戸城下から農村に移して土着させ、武備の充実をはかる

 第3「学校の義」:藩校と郷校の建設

 第4「総交代の義」:定府制の廃止

これらを柱とする藩政の改革は次第に軌道に乗り、その成果は藩外からも注目されるようになりました。

このうち「学校の義」について斉昭は、藩主就任まもなくの頃から藩校建設の意志を持っており、人材育成の大切さに気付いていたようです。凶作などの影響で遅延を重ねてしまいましたが、天保10(1839)年に城内三の丸を敷地とし、翌11(1840)年2月から建設工事の開始を指示しました。

建設された弘道館は、敷地面積54,000坪(178,200㎡)と、藩校の敷地としては全国一の広さになりました。

総工費は約2万両ともいわれ、この大金は「御手元金」と言い、大部分は幕府の助成金から支払われたようです。

また、久慈郡太田村(現・常陸太田市)周辺の5000石の土地を「学田」にして、そこから上がる年貢米を以て運営費に充てることにしました。

弘道館は東の大手門に面して学校正門を、その中側東の大半に正庁を中心とする文館武館の建物を建てました。

西の大半は武術の調練場として馬術・射術・弓術等の運動場に充て、中央部の広場には、鹿島神社・孔子廟および弘道館記の碑を納めた八卦堂を建て、梅林を造りました。

また弘道館は、論語にある「人能く道を弘む 道人を弘むるに非ず」という言葉から、名付けられています。

それは“良き人物こそが良き道を拓く”という意味です。

鈴木暎一・著『水戸弘道館小史』、名越時正・著『水戸藩弘道館とその教育』、安岡定子『実践 論語塾』参照

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