2019.07.18

【水戸の歴史 其の拾壱】光圀の結婚 そして・・・

右の写真は、日立市にある御岩神社の奥の宮かびれ神宮です。

現在、御岩神社は日本でも最強クラスのパワースポットとして有名ですが、かつては水戸藩の祈願所でした。

光圀公は、明暦3(1657)年2月11日、かびれ神宮で大日本史の編纂祈願を行い、

国の中にはびこる草根刈りたちて 君が千代田に返し奉らん

と誓歌を詠んだそうです。


光圀は、人見卜幽との関係から、近世儒学の租とされる藤原惺窩を父にもつ歌人の公卿 冷泉為景と親交を深めるようになります。これにより、京都に憧れをいだき、朝廷の様相に歎くようにもなりました。

そして為景の死後の承応3(1654)年、前関白 近衛信尋の娘 尋子(泰姫)と結婚し、京都との関係をますます強くすることとなります。このとき光圀27歳、泰姫17歳でした。

泰姫は、古典文学の教養と繊細で豊かな才能を備えており、たぐい稀なる才女だったそうです。

2人が結婚してまだ3年目の明暦3(1657)年、明暦の大火(通称 振袖火事)が江戸を襲い、水戸藩邸も焼き尽くしてしまいました。ちなみに、この大火で江戸市中の桃山風の豪壮華麗な武家屋敷がほぼ全滅したことが、文化様式にも大きな変化をもたらすことになります。

その後に光圀夫妻が住んだ蒲田の邸は荒れ地の中にあり、風雨を遮ることも十分できない建物でした。

そして大災の疲労からか泰姫は病んでしまい、万治元(1658)年の正月に光圀と屠蘇を酌み交わして新年を祝いましたが、次第に様態が悪化しその年の閏12月23日にわずか21歳で亡くなりました。

泰姫が亡くなった後、光圀は生涯妻妾を持つことはありませんでした。

このエピソードから、光圀の泰姫に対する深い愛情を感じ取ることができますね。

泰姫は、哀文夫人と諡号を与えられて薬王院に葬られた後、水戸徳川家墓所(通称 瑞竜山)に改葬されました。

名越時正・著『新版 水戸光圀』参照

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