2019.06.20

【水戸の歴史 其の漆】光圀の幼少時代と青年時代

写真は、徳川光圀公(義公)の遺徳を忍んで、昭和16(1941)年、晩年の光圀公に馴染み深い常陸太田市にある久昌寺裏の高台に建立された義公廟です。

廟の中には、光圀公が生母の菩提を弔うために法華教を書き写した桧板30枚を納める宝塔が安置されており、光圀公が集めた明版一切経も納められています。

※久昌寺は、延宝5(1677)年、生母 谷久子を弔うために光圀公により建立された寺院です。

 


徳川光圀が生まれた寛永5(1628)年当時は、三代将軍 徳川家光の治世でしたが、関ヶ原の戦いから29年、大坂の陣からは14年しか経っていない時期でした。※光圀誕生についてはこちら

ちなみに、鎖国政策が完成する寛永16(1639)年は、光圀12歳の時です。

寛永10(1633)年、世子に決まり江戸に迎えられた後の光圀は、水戸城下の素朴な環境から江戸 小石川の華やかな御殿の奥で侍女や女中に取り巻かれる環境となり、その境遇は一変します。

そして9歳になった時、家光の光の字を与えられて、光国と名乗るようになりました。

国を圀に改めたのは後世のことです。

父 頼房の光圀に対する武士としての教育は、まさに獅子の子落としでありました。

12歳の時には、汚物が流れる浅草川を泳いで横断させられ、さらに幼少の7歳の時には、暗夜ただ1人で邸内桜ノ馬場まで斬罪になった囚人の首を取りにやらされたこともあったと言われています。

また、兄 頼重が温和な性格であったのに対し、光圀はとても乱暴な性格であったそうです。

その後、16~17歳に成長した光圀は、いわゆる不良少年でした。

木綿の小袖にビロードの襟を付け、帯を腰に巻き付けた派手な服装で江戸の町を練り歩き、行儀も悪く言葉も粗末。

父の教訓にまったく耳を貸さず、自由奔放わがまま勝手にふるまっていたとのことです。

また、その頃の光圀は大変な美男子だったようで、登城の日などはその姿を一目見ようと、群衆が江戸城近くに人垣を作り、それが崩れかかって騒動になったことがあったというエピソードもあります。

このような人気も、光圀の不品行を増長させたと言えるかもしれません。

名越時正・著『新版 水戸光圀』参照

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